独り言
いろんなこと、小難しい屁理屈から、あほな感想まで、徒然なるままに

もちろん、不定期!(笑)

同じ話題を扱うこともあるので古い物から掲載、それにともない目次を作りました。

議論好きな人は「  論争板  」

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最新アップ順 目次

2003/06/27 愛国心で成績を評価する国
2003/02/20 言葉狩り、言論封殺
2003/02/13 建国記念日と靖国神社
2003/01/15 「保護」運動の危うさ
2002/12/05 「平和ボケ」理論からの脱却
2002/11/21 天皇制国家の複製、北朝鮮
2002/10/14 人間関係の永続性
2002/10/01 理想と狂信、反対のための反対
2002/09/30 裁かれたマスコミ
2002/09/12 戦争なのか?テロか?
2002/09/09 求心力(バトル3)
2002/09/09 ボランティア(バトル2)
2002/09/04 統計の嘘には泣きたくなる
2002/09/03 バトル1
2002/09/01 テロリスト国家
2002/08/30 殺意
2002/08/28 遺伝子の欠落で進化した人類
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
テーマ別 目次

科学
 遺伝子の欠落で進化した人類(02/08/28)
 統計の嘘には泣きたくなる(02/09/04)

死刑
 殺意(02/08/30)
 バトル1(02/09/03)

国家
 テロリスト国家(02/09/01)
 求心力(バトル3)(02/09/09)
 戦争なのか?テロか?(02/0912)
 天皇制国家の複製、北朝鮮(02/11/21)
 「平和ボケ」理論からの脱却(2002/12/05)
 建国記念日と靖国神社(2003/02/13)
 愛国心で成績を評価する国(2003/06/27)

ボランティア
 バトル1(02/09/03)
 ボランティア(バトル2)(02/09/09)
 理想と狂信、反対のための反対(02/10/01)

その他
 裁かれたマスコミ(2002/09/30)
 人間関係の永続性(2002/10/14)
 「保護」運動の危うさ(2003/01/15)
 言葉狩り、言論封殺(2003/02/20)




 
■■■遺伝子の欠落で進化した人類  2002/08/28

昔、Nifty時代に、BBS8で、キリスト教ファンダメンタリスト達と
大論争を展開したことがある。進化論についてだ。

進化を否定する彼らの論拠の一つが、
「こんなに複雑な仕組みを持つ"人間"のような生物が"偶然の組み合わせ"
でできるはずがない。確率的にありえない」
というものだ。

たしかに、「人間の仕組み」は「神秘的」とも思えるくらい複雑だ。
特に内分泌系、妊娠時の胎児を守る仕組みなどは
「神の御技」としか思えないくらい、複雑であり、見事だ。


私の考えは、
「現在の結果を合目的的に進化したものと考えれば確かに不思議だ。
しかし、"こうなるべき"方向へ進化したと考えることが間違っており
偶然の結果、今、こうなっているだけにすぎない、
と考えれば、不思議でもなんでもない」
というものだ。

A,B,C,D,Eの5個のサイコロを振って、すべて1が出る確率は1/6の6乗、
1/7776だ。すべて1を出そうとして、出せる確率はかなり低いわけだ。

ところで、A=3,B=1,C=6,D=3,E=4という結果が出たとしよう。
この結果を見て「私はA=3,B=1,C=6,D=3,E=4を出そうとした」と言えば、
この結果を出せる確率も1/7776だ。

つまり、「結果を前提として、そういう結果を出そうとすれば確率的には低いが、
その結果を出そうとしたという前提自体がおかしい」
のだ。

「人間(だけではなく、いろいろな動物もだが)のような複雑な存在」は
あくまでも、偶然の積み重ねでできあがったものであると思うのだ。

「進化」という単語が良くないのかも知れない。
「前へ進む、良くなる」という語感があるからだ。
「進化」・「退化」も含めた「変化」というべきかも知れない。
むしろ、遺伝子の欠陥や、突然変異も含めて、「変化」し、
その中で「生き延びる特徴」を持ったものが生き残った、
これが「進化」だと考えていた。
いわば「奇形児」が発現し、そのほとんどが生き延びなかったが
極少ない、「生き延びることに適した奇形児」が、
新しい種を形成したのが「進化」だと思っていたのだ。

今日の東京新聞の夕刊に、次のような記事が出ていた。

「細胞表面にあり細胞間の情報伝達に関わるシアル酸という物質がある。
遺伝子Aは、あるシアル酸から別のシアル酸Bを作る役割を持つものだ。
チンパンジーと現代人のDNAを調べた結果、ほ乳類が共通して持つ
この遺伝子Aが、人類では270−280万年前に失われた。
この遺伝子Aが失われた結果、シアル酸Bが出来なくなり、
これが人類において、脳が高度に発達した一因ではないか。」
という研究結果を、総合研究大学院大学と米カリフォルニア大学
サンディエゴ大学の国際共同チームが発表した、というのだ。

「脳が大きくなる」のは、その当時の「類人猿」からすれば、
一種の「奇形児」だったのだろうなぁ・・・。

「進化」の元の言葉「evolution」は、ラテン語「(巻物などを)開くこと」から来たらしいが、
「前に進む」だけではなく、単なる「展開」の意味があった。
どうやら、生物学の「前成説・後成説」の時に使われたみたいだが、
これを「進化」と訳したことそのものに問題がありそうだなぁ。


 
■■■殺意  2002/08/30

気持ちはわからないでもない。
計画的殺人と結果として殺してしまったのとでは量刑が違うこと。
あるいは、罪を後悔していて、改悛の情を認めれば減刑すること。

しかし、「殺意」を定量的に判断できる物だろうか?
「改悛の情」を定量的に判断できる物だろうか?

「やむにやまれぬ事情」もある。
殺された側に同情できない場合もあるだろう。

完全犯罪を計画して、隠し切れればよいが、
それに確信を持てない場合は、方法は一つだろう。

無計画を装い、はずみで殺してしまったという立場を貫き通し、
「激情に駆られた」もっともらしい理由を縷々と述べ、
殺意は絶対認めない。
「殺すつもりはなかった」と言い張り、
「相手が死んでしまったことを後悔し、改悛と贖罪の気持ちを強調」する。
確実に、あなたの量刑は軽くなる・・・。

アメリカで、「強姦殺人」で有罪になったが、
その州に死刑がないため、死刑にならなかった人が
16年ぶりにDNA鑑定で無罪が証明されたという。
他の州なら、死刑だったそうだ。

死刑も、殺人であることに変わりはない。
「冤罪」の可能性がある限り、「死刑」は恐ろしい。

人が人を裁くことは、かくも困難だ、と思う。


 
■■■テロリスト国家   2002/09/01

これだけ、笑えて、しかも本質を突いた言葉はない。

広辞苑が正確な定義をしている。
テロリスト【terrorist】テロリズムを奉ずる人。
テロリズム【terrorism】(1)政治目的のために、暴力あるいはその脅威に訴える傾向。
            また、その行為。暴力主義。テロ。(2)恐怖政治。

国家とは暴力機構であり、個人が国家に対抗して暴力で抵抗する権利があることを
喝破したのはローザ・ルクセンブルグだし、古くはアメリカの独立宣言だ。

死刑のみならず、監禁・懲役・逮捕なども、一種の暴力であり
国家は自らを守るために、これらの暴力を行使する。
もちろん、「国家の暴力」は、必要悪である側面があり、
だからこそ、「国家の暴力」を振るうためには、「不正な暴力」にならないように
法律によるさまざまな制限を加えている。

「暴力機構のない国家」は、理想であっても、存在し得ないのも事実だ。

イスラエル建国前に、多くの武装グループがいて、暴力テロを行った。
その時のメンバーが、今のイスラエル政府高官にたくさん居る。
そう言えば、「明治維新政府」もテロリストがたくさん居た。

戦争はある意味で、「集団テロリズム」だ。

パルチザンにしろ、レジスタンスにしろ、ナチスドイツに対する
テロリズムであったことも、また、間違いがない。

ガンジーの無抵抗・非暴力主義も、ガンジーの運動だけで
インド独立が達成できただろうか?

かつて、特高警察やゲシュタポが、治安維持のためのテロリズム組織であったように
「警察権力」も、その掲げる目標によっては、簡単にテロリズムに変わる。

「一つの価値観」を強制することが「世界の警察」の役割ならば、
それを標榜するアメリカも、イスラムゲリラ組織と本質的には変わりない
「テロリスト国家」
と言うしかないだろうに。


 
■■■バトル1   2002/09/03

メールが来た。独り言でも聞いてる人もいる。
それを期待しなきゃ、ネットに載せない(笑)。
特に、君は、いつかやっつけてやりたい奴だから(笑)。

で、
( 1)ベアは死刑廃止論者か?
是であり、非だ。

死刑も殺人も、「人を殺す」事であるという意味で、死刑は有りだと思う。
なぜなら、「憎くて人を殺す」こともあれば、「愛して人を殺すこと」もある。
「安楽死殺人」も「人を殺す」ことであるし、そういう意味で殺人を否定しない。

問題は、「殺す側の論理」と「殺される側の論理」だ。
「安楽死」にしても、「相手が本当に死を望んでいるか」の判断は
所詮は「こちら側の思いこみ」でしかない。

まして、殺人は、多分間違いなく「相手は死を望んでいない」だろう。
それでも、私は「殺人」を認める。

「殺さなくては収まらない怒り」は、例え、一時的な物であってもあると思う。

問題は、「殺したいほど憎んでいない相手を殺すこと」だ。

「公憤」や「義憤」にかられて、「そんな奴は死んで当然だ」として
「他人の死」を自分の心の中で正当化できかどうかだ。
「殺すことを認める」ことは「殺されることがあり得ることを承知する」だと思う。

「死刑制度」を認めると言うことは、「国というシステムが自分を殺す」ことを
認めることだ。生殺与奪の権利を託しているということだ。

被害者を愛していた人が「犯人を殺せ」ということは理解する。
だが、「マスコミで報道された犯人像」に対して、
「死刑は当然だ」と言い切る「勇気」(あえて勇気と言う)は、
私にはない。

まして、死刑の判決を下す裁判官、死刑のスイッチを押す刑務官に
私はなれない。

そういう意味で「個人的に憎んでいない人の死を是認する」ことは
戦争の論理であり、宗教の論理であり、それを「正義の論理」という。
(オウムの事件は不思議でも特殊でもない。宗教としてはむしろ一般的だ。)

そこまで、私には「知らない人を憎めない」。

なお、「システムとしての死刑制度」には、冤罪の問題が、常にある。


第二の追求、
『ボランティア』について、ベアの考えを聞きたい〜
>ずばり、ボランティアとはなにか?なぜ必要なのか?
>=偽善 なんて、冷めた答えはなしね(爆)


「ボランティア=偽善」だ!(爆)

お得意の広辞苑をひく。
「(義勇兵の意) 志願者。奉仕者。自ら進んで社会事業などに無償で参加する人。「―活動」」

一番嫌いなのが「自ら進んで無償で参加」というくだりだ。

「この行為が"無償"」という視点が出てくる事自体が、私には「偽善」としか思えない。

相談に乗ること、助け合うこと、助力すること、それは当たり前の事じゃないか?

「償」は、「金銭」なのか?
「満足感」や、「幸福感」や、「つながっているという自覚」は「償」じゃないのか?

まして、「国がしなければならないサービスを、ボランティアというシステムで補完」したり
なによりもかによりも「授業」で必須にして、「単位」にする???

「ボランティア」の本質、露見したり!


さて、かかってきなさい(笑)!


 
■■■統計の嘘には泣きたくなる   2002/09/04

厚生労働省の研究機関、医療経済研究機構なる組織が、
また「たばこの害」について発表した

それによると、現在、喫煙者が28,165,579人、直接喫煙による死亡者102,403人
たばこによる医療費13.086億円、煙草税収22,797億円。
ところが、もし税金を上げて、1箱300円の売価にしたら
煙草を止める人16%、本数を減らす人30%
これを1箱1000円にしたら63%が煙草を止め、「同じような本数を吸う人」はわすが4%になるそうだ

煙草が500円の場合、喫煙者は16955679人、税収は26909億円
1000円煙草にすると、喫煙者は10364933人、死者は37,684円になり、
医療費は1兆円近く減って4816億円
逆に、煙草税収は32,899億円になるそうだ。

ところで、この数字からすると、喫煙者一人当たりの税負担は
煙草500円なら158709円
煙草1000円で317407円

たしかセブンスターの煙草に関す税金が1箱250円の売価で141.44円だから
煙草500円だと、喫煙者は年間405箱(値上げ分がすべて税金として)
煙草1000円だと、年間356箱。(々)

なるほど、500円が1000円になると喫煙を止める人は43%→63%で
「同じように吸う人」はわずか4%なのに、
喫煙本数はわすが10%しか減らないというのだ(笑)?

しかも、「喫煙を止める事による死亡者が減る」ことでその分の医療費が
マルマル減少するわけじゃないことはあたりまえ?
喫煙を止めることで死ななかった人が必要とする医療費の算定はしてるのだろうか?

「ためにする」統計データを発表する事に対する、
「統計学者」としての良心の痛みは無いのだろうか?

それとも、「こんなわかりやすいごまかし」を発表することで
「ごまかしをばれやすく」してるのかな?(爆)

それにしても、今、煙草を全廃したら、税収と医療費の差額1兆円が歳入不足となる上に
(正確には、医療費のほとんどは個人負担及び健康保険税等でまかなわれているから、
「国庫負担としての医療費」との差額は2兆円近いですなぁ)
煙草関連産業の雇用も全滅、
結局、煙草に頼ってるんだねぇ、政府は?

でも、マスコミも、いい加減、「発表マル写し」ではなく
少し自分の頭使えよ!


 <
font size="4">■■■ボランティア(バトル2)   2002/09/09

バトラーからメルが来た。
対話も、また、双方向の独り言。
歓迎するぞ(笑)。

> 欧米に比べて、日本って、ボランティア精神乏しいよね。
> これって、なぜかって考えたとき、宗教心がないからかな・・
> 文化や歴史の違いはもちろんだけど、
> 宗教が一番の根っこのような気がする。
> いまの日本って求心力ないもんねぇ〜
来たな!パターン(笑)<ごめ、でもマジ


この5行の中に、
・「ボランティア」と称するものの胡散臭さと、
・実は、私が一番警戒していること
の二つが凝縮されているのだ。
(後者については、次項で詳しく説明する)

バトラー氏のボランティア感は以下のようなものらしい。
(要約は私。間違っていたら連絡乞う、修正する)
》人間はだれもが死ぬ。何も残らない。でも、生き残った『他人』の中には残る
》ある意味で「自分の人生=他人の心」とも言える。
》自分と出会った相手の心の中の記憶として刻まれる、自分自身の生きた証・・。
》だとしたら、理屈ではなく、
》「みんなで助け合おうという思いが、自然に生まれてくる」のではないか?
》つまり、ボランティアとは・・人間として、当たり前の行為。


この考え方を「理解できない」とは言わない。
ある意味で、恋愛やセックスも、相手の中に自分を刻み込みたい、という欲求かも知れない。
だから、「死んだら何も残らない」ということも含めて、賛成だ。

問題は、「自然に生まれた人間として当たり前の行為」を
「ボランティア活動」と称して、「わざわざ」やるのか? ということだ。

「宗教心とボランティア精神」というのが、キーワードだと思う。

一般に、一神教では、「神の御前に」自らを律する。
仏教では「因果律」を前提とする。
つまり、「宗教心によるボランティア活動」とは、
「今、行う"善行"が神に認められる」
「今、行う"善行"が"因"となり、良き"果"となる」
事を期待しているのではないか、ということだ。

前項で、私が「無償」の「償」ってなんなの? と聞いたのはこのことだ。
「償」とは、「つぐなうこと」であり「むくいること」だ。
つまり、「無償」とは、「償われること、報われることを期待しない」ことではないか?

「償」には、「神への媚び」や「因果律による期待」もある。
あるいは、「自己満足」も含まれる。
そういう意味では、教育の場で「ボランティア活動が単位となる」のも「償」だ。
だから、教育でのボランティア単位制が「ボランティアの本質を暴露した」と思う。

ここで、勘違いして欲しくないのは、「だからボランティアは不要だ」
と言っているわけではない、ということだ。

人間に限らず、助け合う。共同体とはそんなものだ。
困ったときに助けるのは、自分が困ったときに助けられるのを期待する、
それは、恥ずかしいことでは決してないと思うのだ。
「情けは人のためならず」という言葉の本当の意味は
巡り巡って善行の報いはいつかは自分に返ってきて報われる、という意味だ。

それを「無償の行為」というのが嫌いなのだ。「偽善」だと思うのだ。

もちろん、「有る行為に対して、具体的な見返り」を要求するのは単なる「計算」だ。
どういう見返りがあるのか、無いかも知れない、どういう形になるのかも知れない、
それでも、「つい何かをしてしまう」。それが助け合いじゃないだろうか?

だから、「国がボランティアを単位とする」というのは、唾棄すべきなのだ。
なぜなら、それは「具体的な見返りを前提」としているからだ。
「単位」という見返りを提示することで、それは「助け合い」ではない。

そういうことだと思う。


 
■■■求心力(バトル3)   2002/09/09

さて、
> いまの日本って求心力ないもんねぇ〜
と言う点だ。

この言葉は何回も聞いてきた。
保守回帰の戦前夢想政治家から、狂気の新興宗教家まで。

それに対して、私の疑問はただ一つ。
「"求心力"って、なぜ必要なの?」だ。

ある集団を維持し、発展させるためには、たしかに求心力が必要だ。
しかし、「ある集団の求心力」は、その集団に属さない者にとっては
迷惑どころか、恐怖でもある。

なぜなら、求心力は、その集団に属さない者を排除する方向へ向くからだ。
求心力は、統一を求め、同一化を求める。
その過程で、同化しない者は「敵」とみなされる。

いま、求心力を持った集団を考えればよくわかる。

パレスチナであり、イスラエルであり、テロ組織であり、北朝鮮だ。
求心力が、その中心を失うと崩壊する。
近くはナチスであり、天皇制大日本帝国だ。

この、求心力による「敵」の排除は、しばしば「近親憎悪」に結びつく。
「本来、同じ中心を求めるはずなのに、そこから逃げ出す者」は「敵」だからだ。
「裏切り者」、「売国奴」・・・

敵前逃亡や抗命者は死刑だ。
なぜなら、軍隊というもっとも求心力を必要とする組織、
すなわち「命よりも求心力を要求する」(死を覚悟して前進しなければいけない)組織にとって
命令不服従は、敵よりも「邪魔」な行為だからだ。

日本赤軍の「粛清」やオウムの「内部ポア」は、歴史の中で特異な事例ではない。
多くの「求心力の強い組織」で繰り返されてきた悲劇なのだ。


だから、私は、「あなたにとって理解できない私の存在」が許されるべきだと思うし、
「私にとって理解できない人達」が存在することを喜ぶ。
   (もちろん、私が、私に理解できない奴らを「アホ」と呼ぶのは、また別の話だ(笑))

私は、「求心力のない日本」が好きだ。
多くの「求心力が必要だ」という輩は、
「私の考えている"中心"こそが正しく、みんなもそれを求めるべきだ」と考えているからだ。

いくつもの「緩やかな」求心力を持ついくつもの無数の集団が
小競り合いをしながらも「共存」できる日本であって欲しい、と思う。

 
■■■戦争なのか?テロか?   2002/09/12

9.11が終わった。
ブッシュの「この戦争には勝ち抜く」という宣言を見て、
また、以前の疑問がぶり返した。
9.11は、戦争のはじめなのか? テロという犯罪なのか? という点だ。

テロは、「目標とする政権を倒し、そのテロ組織が政権を握るまでは犯罪」
であることは言うまでもない。
イスラエル建国前のイスラエル武装組織が行ったテロは間違いなく犯罪であるし、
アメリカ独立戦争やビシー政権下のパルチザンも、当時は犯罪だった。
しかし、建国や独立、勝利を得たことによって、それらは「正義の闘争」に変化した。
その意味では、イスラムゲリラの行為は「テロという名の犯罪」だ。

しかし、これが「戦争」だとすると、どうだろう。
(ここでは、事の善悪や是非理非は問わない)

「爆撃」には、「戦術爆撃」と「戦略爆撃」がある。
戦術爆撃は、戦術的目標、敵の軍隊や軍事施設を狙う爆撃であり、
戦略爆撃は、都市など、「敵の戦争遂行能力を支える」物や者を爆撃する。
いわゆる、無差別都市爆撃は、ピカソの絵で名高い、ドイツ軍のゲルニカ爆撃が
その始まりであったとする説が多いが、私にはそうは思えない。

戦術爆撃と戦略爆撃の境目は難しい。
例えば、鉄道は軍事輸送のライフラインではあるが、同時に生活物資の輸送ラインでもある。
一般市民も、徴兵制の元では、「兵士予備軍」だ。
まして、戦争が「傭兵やプロの兵士」によってのみ闘われた時代はともかく、
国家の総力戦である以上、
非戦闘員も含めて爆撃をし、被害を与えることは、
生産力を阻害し、士気を低めるという意味でも、戦略的には効果がある。
それを最大限に利用した戦略爆撃こそが、
第二次大戦末期におけるアメリカ軍の焼夷弾絨毯爆撃であり、原爆だ。

もし、9.11のテロ行為が、戦争だとしたら、
イスラムゲリラが「戦略的軍事行動」を取ったことを、
一番非難できないのがアメリカでは無いだろうか?


戦争が、「政治の延長」であり、政治には当然経済が含まれる以上
戦争には自律的な抑止要素があった。
敵の国土を二度と使えなくしたり、敵国民を壊滅させてしまったら
「勝利のメリット」がなくなるのだ。
だからこそ、「核の抑止効果」は存在した。

しかし、イスラム原理主義は、「戦争の新しい形態」を創出してしまった。
上記のような「合理的抑止要素」を無視した、「戦争形態」なのだ。

「他集団を全滅」させてもよく、しかもそのためには「自らも喜んで死ぬ」
このような集団に対して、どのような言葉も「説得力」はないだろう。
しかも、それは、イスラム原理主義だけではなく、
キリスト教や、その他の宗教が本質的に持っているものだ。

仏教や道教など、東洋的多神教の一部を除いて、多くの宗教は
「自らの教え"のみ"が正しい」ということは「他の教えは間違っている」
として、「信じる者のみが救われる」とする。
仏教においても、この傾向はあり、一向一揆や日蓮宗などに顕著だ。

それに対して、一体何が有効なのか・・・
ある意味では、ジェノサイトしかないのか・・・・・・


それにしても、一つだけ気になる疑惑がある。
9.11を、アメリカ首脳は知っていたのではないかと、という疑惑だ。
第二次大戦の日本軍による真珠湾攻撃を知っていた(これは、疑惑)
朝鮮戦争の北朝鮮の南進攻撃を知っていた(これは、かなり確実)
おなじことを、アメリカはしたのではないだろうか・・・

 
■■■裁かれたマスコミ   2002/09/30

やっと、HP移転も一段落、独り言も復活。

んで、テレビで、オウムの某弁護士の姿を見た。
例の「やめて〜」のおじいさんだ。

しかし、「弁護士が依頼人の利益を守る」のは当然だ。
「道義的判断」で「依頼人を断罪」していたら、それは弁護士ではない。

それにしても、面白おかしく「やめて〜」を何回も繰り返して放映する。
「プロ野球珍プレー」じゃないのだ。

マスコミの自己弁護、つまり
こいつはこんなに「珍」なのだ、
だから攻撃しても良いんだ
という自己弁護じゃないのだろうか?

青森のアホが大金を貢いだ某外国女性の「日本語吹き替え」、
いかにも憎々しげなしゃべりだ。

小林某アホマンガ家の手口と一緒だ。
「内容の一つ手前で予断を与える印象」を押しつける。

「客観的報道」など存在しないのは承知しているつもりだ
しかし、酷すぎだ。

年老いてリタイアした、某弁護士が「やめて〜」と喋る姿。
それ以上に、「喋らせて放映」するマスコミは醜い

 
■■■理想と狂信、反対のための反対   2002/10/01

かつて、今は亡き社会党が「反対するだけしかできない政党」といわれた。

今、民主党が「政権奪取・担当」能力を問われているという。

「民主主義」というのは、無駄で、迂遠な努力を必要とする。
「効率」だけを考えたら、「狂信的独裁主義」が最も効率がよい。

「軍隊の強さ」は、兵器などの物理的う側面以外では、
「死ぬことを恐れない兵士」と「鉄の規律」で決まる。

「民主主義」は、「弱い軍隊」が不可欠だと思う。

組織は、「反対する勢力」を排除した方が効率的で強い。
例えば「反戦派」を抱えた軍隊は弱い。

例えば、民主主義は「民主主義を撲滅しよう」という言論をも許容する。
とこめが、「効率的独裁主義」は「独裁主義を撲滅しよう」という
言論は決して許さない。

どちらが強いかは歴然だ。

それでも、私は、いわゆる「民主主義」であるべきだと思う。

その観点からするとき、
「反対するしか能がない組織」は、実は不可欠ではないだろうか?

「政権を狙う二大政党」と、「政権を夢想する二大宗教党(笑)」
それはそれでいい。
だが、「政権とは縁がなく、反対しかできない政党」
実は、その存在が、不可欠ではなかったのではなかろうか?
と考えている。
 
■■■人間関係の永続性   2002/10/14

チャットでは何回か話したことがあるのだが・・・

根底には、コミュニケーションというものは、
本質的に成立できないものである、
という単純な原理なのだ。

ある、言葉が、自分の持っているイメージ通りには伝わるはずがない、
という基本的な事実で、
例えば、「アホ」という単語が、関東と関西とで
異なるイメージを与えるように、
言葉は、つねに文化や環境を背景に持ち、
それは個々人によって異なるわけだ。

だから、コミュニケーションは、ある意味で、
「理解されているという幻想」を前提に成り立つ。
つまり、コミュニケーションそのものがバーチャルだとも言える。

これは、言葉だけではない。
手話のように、しゃべれない人、聞けない人も含めての話だ。

さて、コミュニケーションの全く無い人間関係、
というものがあるとすれば、少し話は別だが、
一般的には、人間関係とコミュニケーションが不可分と言っても良いだろう。

そういう意味で、「リアルな人間関係」というのも、
実はバーチャルなものであり、一時的なものだと思っている。

このあたりの感覚を理解できるかできないか、
(別に理解できることが良いとか正しいというわけではない)
遅くとも、中学時代までの、一家での転居・転校経験の有無に
大きく関わっているのではないかという気がしている。

隣接地での転居・転校はともかく、遠隔地への転居・転校は
幼い子供にとって、家庭以外の「人間関係のオールリセット」だ。

中には、小学校の転校時の
「遠くに離れてもいつまでも友達でいようね」
という言葉が守られているケースがあるかも知れないが(笑)
一般的には、良い・悪い関係なく、人間関係はリセットされ、
全く新たなスタート地点にたたされる。

高校生くらい以降になると、転居・転校でも継続する人間関係が出てくるし、
例えば、大学進学、あるいは就職・結婚での転居は
ある意味で、「帰る場所」を確保した上でのことだ。

つまり、「バーチャルに、継続性というリアルな衣をつける能力」
発展してきてからあとの話なら別だ。

所詮は
「リアル社会での人間関係もバーチャルだ」
という、諦念が、自分の中に有ることは否めない。

まあ、寂しいことではあるけど(笑)。

 
■■■天皇制国家の複製、北朝鮮   2002/11/21

朝鮮という国家を見るとき、
(私の年代でも想像でしかないが)
戦前の天皇制国家との類似性を想像するのは
私だけではないだろう。

端的に言えば、「家父長制国家」だ。

ずっと、誤解していた言葉がある。
「亭主の好きな赤烏帽子」という言葉だ。
「例え変な趣味でも、亭主が好きなものはいつの間にか好きになってしまう。
一緒に暮らしていれば趣味も似てくるものだ」
と、私は思っていた。
しかし、本当の意味は、
「亭主が好きなものは、例え変な趣味でも
強制的に好きにならなければいけない」
という意味らしい。
「馬鹿」の語源、秦の末期、趙高と胡亥との故事に似ている。


教育勅語を復活したい、というアホ共が、教育基本法を改正したがっている。
またぞろ、「愛国心」だ。
だが、世界で最も愛国心の強い国民が多い国、それが「北朝鮮」だろう。
そして、「愛国心教育」のもっとも進んでいる国も「北朝鮮」だ。

もちろん、アホ共は言うだろう。
「間違った愛国心」とは違う。
しかし、上から教育しようとする「愛国心」とは、
基本的に「亭主の好きな赤烏帽子」なのだ。


戦時中に、反戦活動をやって、監獄に収容されていた数少ない団体の一つが
キリスト教原理主義団体の一つ、「エホバの証人」派だ(ものみの塔)。

敗戦後、「解放」された彼らは、
その後、アメリカの本部と喧嘩をして除名された。
アメリカの「ものみの塔」本部に、星条旗が飾られているのを見た
日本の当時のものみの塔の幹部が
「神のみに忠誠を誓うはずなのに、
世俗的国家であるアメリカの国旗を掲揚するのはおかしい」
とぶつかったらしい。


個人への忠誠、信仰への忠誠、組織への忠誠・・・・・・
私は、自分の忠誠心のなさを高く評価する・・・・・・


教育基本法を「改"正"」して、権利より義務を教え込み
愛国心と、忠誠心を教え込み、
日本も北朝鮮にしたいのだろうなぁ・・・(笑えない)。


(面白いことに、いわゆる「拉致議連」のメンバーは
教育基本法「改"正"」派が多い。)


 
■■■「平和ボケ」理論からの脱却   2002/12/05


読売新聞の社説が「"平和ボケ"論理から脱却せよ」というタイトルで、
イージス艦派遣を、「当たり前のことを決めたに過ぎない。むしろ遅すぎるくらいである。」
と主張している。
「自衛隊の活動に足かせをはめさえすればよい、といった誤った平和主義に基づく
安保論議から、もう卒業する時だ。 」とも書いている。

どうも読売新聞には、歴史を学んだ人間が居ないらしい。

近代国家の軍隊は、シビリアンコントロールが前提であり、
それは、「軍部の独走に"足かせ"をはめる」ことを目的としているのだ。


「軍備強化や軍事活動に反対する」ことを「平和ボケ」と
非難することが最近の風潮らしい。
いや、これは実は、最近だけの話ではない。

平和憲法下で、軍事力を持つ事に反対した勢力に対しても
「戸締まり論」による攻撃が横行したことがある。
「泥棒が存在する以上、警備(戸締まり)は不可欠」だから自衛力としての軍備が必要だ、
として、「警察予備隊」がいつの間にか「自衛隊」になってしまった。

一見もっともな論理だ。
しかし、この論理を展開すれば、アメリカ的銃社会を目指すしかない。
警察が居ても、泥棒や殺人、暴力団が横行する以上、
「自衛権」として、個人が武装しても良いはずだ。

鍵をかけるだけではない。
侵入しようとする「賊」を防ぐために、殺傷力を持った武器を用意する、
というのが、「自衛武装」の論理だ。
しかも、「軍事理論」では、
「攻撃されるかも知れない、されたら負ける。だから、先に攻撃すべき」
という論理がまかり通りやすい。

「核の傘」による安定は、「核兵器を所持しているから攻撃されない」のではない。
「攻撃したら、"残った核"で反撃される可能性がある」から攻撃できないのだ。
もし、敵の核兵器を全滅させることが可能になるか、あるいは、核による反撃を
確実にブロックできるようになれば、「核の傘」は無意味になる。
これが、「軍事学上の常識」だ。


近年、自衛隊の「自衛権」に関する解釈は、ますます拡大している。
それらの「権利拡大」に「足かせ」をはめる事こそが必要な事ではないだろうか?
そして、「足かせをはめる」ことを「平和ボケ論理」と定義する事は
「内容の吟味」を行わず、「非国民」「アカ」というラベル貼りで
攻撃したかつての時代と同じレベルの攻撃法だ。


「平和ボケ」は、ありがたい事だ。「平和ボケ」を享受できる環境を
できるだけ維持し、その状態を守る事が必要なのでは無かろうか?


かつて、「宗教」をこう定義した人がいた。
「平和に暮らしている人々の村に突然やってきて、
"あなた達は不幸だ"と教え込み
"その不幸から脱却する尊い教え"を提示するのが"宗教"だ」


テロの脅威を喧伝し、戦争を起こす事を正当化するアメリカの論理と、
この宗教の定義と、
そして「平和ボケ論理からの脱却」をいう読売新聞と
これらは、同じ病根ではなかろうか?


「平和ボケと攻撃する理論」からこそ、脱却すべきでは無かろうか?


 
■■■「保護」運動の危うさ  2003/01/15


かなりヤバイ話題だが、あえて書く。
正田邸取り壊しに伴う「保護」運動のことだ。

なにを「保護」するかという点は、
もちろん、「保護をしたいと考える」人達の意志による。

絶滅寸前の動物を「保護」しようとする人達が居る一方で、
「人類に害を与える様々な生物」を絶滅させようと努力する人達もいる。
もちろん、病原菌や、伝染病を媒介する蚊や蠅、
あるいは、害虫や危険な毒物を持つ動物を、だ。

もちろん、人類も生物の一種であり、
厳しい、種の生存競争を生き抜かなければならない以上、
種としての「損得勘定」で他の種に相対することは当然だ。

問題は、「人類という種の勝手で取捨選択をしている」という自覚の有無だろう。


まあ、有る程度の歴史的意味があることはわかる。
しかし、テレビの論調は典型的なごまかしをやっている。

「建築学会でも保存価値がある建物にリストアップされている」という。
なるほど、原本を見ていないが、リストには「i6XXX」というナンバーが振られていた。
おそらくは、このリストには何千軒もの「歴史的建造物」が
リストアップされていたのであろう。
問題は、ここにリストアップされた建造物で取り壊されたものはないのだろうか?
あるいは、取り壊されようとした建造物に対する反対運動はあったのだろうか?

日テレの司会者は言う。
「皇后が"保存には執着していない"と言ったのは、ここまで問題になった以上
"保存して置いて欲しい"とは言えないことを理解するくらいの
デリカシーが必要ではないか」と。

これでは、まるで、天皇機関説だ。
つまり、「天皇という絶対権威」の、意志を「忖度」することによって、
自らの意志とする、すり替えであり、寄生権力の常套手段だ。
中世天皇制をむしばんだ大きな要因の一つは、藤原摂関政治を例に出すまでもなく、
皇后の実家、天皇の外祖父などであったことを考えると、
皇后を輩出した正田家が、相続税の支払いのために家を物納で手放した、
という現代のシステムこそ賞賛すべきでは無かろうか?

「歴史的建造物」の保存運動に「君が代」を唄う意味が何処にあるのだろう。


さて、話は、また元に戻る。
「環境保護」だ。

現代に棲息するほとんどの生物は、実は、環境破壊で生存が可能になった。
元々、原生物は、酸素のある大気下では生存できなかった。
ところが、酸素を排出する生物が増加し、環境が激変し
酸素大気の中で生き延びることのできる生物が繁栄し、
旧来の生物は、現在では、嫌気性バクテリアとして、土中や石油の中など
限られた範囲にしか存在していない。

もちろん、「人類が生き延びる」ためには、
「現在の環境を維持」するべきだろう。
そのこと自体には反対しない。
ただ、「地球環境を守る」という前に、
正直に、「人類にとって都合の良い環境を守る」と言って欲しいのだ。


動物愛護の奇形の典型が、「生類哀れみの令」であることは言うまでもない。
グリーンピースの狂信的鯨保護運動や、イギリス風「ペット保護運動」、
あるいは今回の正田邸騒動にみるように
「保護」は、「絶対の正義」ではなく、「相対の取捨選択」であることを
自覚すべきだと思うのだが・・・<無理だろうなぁ・・・



 
■■■建国記念日と靖国神社  2003/02/13


「国家」ということを前提にすれば、
「国家」にもアイデンティティはあり、
(というよりも、国家という、不自然で人工的な組織だからこそ
アイデンティティをでっち上げる必要があるのだが)
そのために、国家が「建国記念日」を「国民に祝わせ」ようとするのは
ある意味で当然だろう。

本来なら、「大日本帝国」が「日本国」に変わったときが、
「国体の変革」にあたり、その日を建国記念日とするのがもっとも純粋なのだろうけど、
残念ながら、「曖昧な形での天皇制を引きずって」しまったため
明治時代の「紀元節」を流用してしまった。

実は、この問題は、非常に大きな問題で、
もし、「日本国」が成立した時に、「大日本帝国」という過去の清算をしていれば
現在、引きずっている、戦後補償問題とか、日本への警戒心もクリアできたのだ。

日本人にとって天皇制が必要か不必要かという点については、別にして
(私自身はメリットもあるがデメリットが大きいと思っているが)
純粋に「日本国という国家の利益」だけを考えれば、
明らかに、国体の変更を明確にした方が、「得」であることは当然だ。
ところが、「損」であることを承知で、天皇制を曖昧な形で残し、
しかも、昭和41年になって、かつての紀元節を「建国記念日」として
制定するような行為が、他国から猜疑心をもたれてしまうことは当たり前だ。
オウムがアレフになっても「麻原尊師」を敬っている間は
猜疑心をもたれていることに近いだろう。

ところで、「紀元節」は、明治6年、「2月11日」に制定されたが
制定当時、「保守的日本帝国臣民」からかなり反発をうけている。
というのも、江戸時代までの太陰暦が太陽暦であるグレゴリオ暦に
変更されたとき、多くの日本人が「西洋文化への屈服」と受けとったからだ。
(これは、当たり前で、暦法は、国家の専管事項の一つだ)
しかも、2月11日というのは、日本書紀に記述されている、
神武天皇が橿原に宮を作った(つまり、王朝の開設だ)「元旦」を
グレゴリオ暦になおすと「BC660年の2月11日」と計算した結果だ。
つまり、旧盆と新盆という区別をすれば、新盆にあたるわけだ。

ある意味で、「日本の伝統文化を無視」した制定方法ではあるかもしれない。


ところで、靖国神社だ。

国家が、「国家の命令により死んだ国民」に対して、
何らかの補償をするのは、ある意味で当然だ。
遺族年金のような金銭的なものから、
「鎮魂」のような「儀式」を行うことは否定しない。
どこの国でも、そのような墓地や儀式はあるし、
死んだ人間はともかく、そのことによって、遺族の心が少しでも安らぐのであれば
決して無意味ではないかも知れない。

問題は、それが「靖国神社」であるべきかどうか、という点だ。

靖国神社のホームページ(あるんですよ、これが)では
「靖国神社は、明治2年(1869)に明治天皇の思し召しによって、
戊辰戦争(徳川幕府が倒れ、明治の新時代に生まれ変わる時に起った内戦)
で斃れた人達を祀るために創建された。
 初め、東京招魂社と呼ばれたが、明治12年に靖国神社と改称されて今日に至っている。
 後に嘉永6年(1853)アメリカの海将ペリーが軍艦4隻を引き連れ、
浦賀に来航した時からの、国内の戦乱に殉じた人達を合わせ祀り
明治10年の西南戦争後は、外国との戦争で日本の国を守るために、
斃れた人達を祀ることになった神社である。」
と、その「概要」を説明している。

その「戦争」の一覧の中で「台湾征討」というのは、かなり問題だろうし、
「大東亜戦争」と未だに表記しているのもどうかと思うが、
それはそれとして、その年中行事に、
・新嘗祭  11月23日
・天皇御誕辰奉祝祭   12月23日
の二つがあること違和感を覚える。
「新嘗祭」は、元々、天皇がその年の収穫物を神に供え感謝する儀式で、
天皇即位の最初の新嘗祭は「大嘗祭」と呼ばれ、「即位儀式」でもある。
「天皇御誕辰奉祝祭」とは、天皇誕生日のことだ。

「日本の国を守るために斃れた人達を祀る」ために、新嘗祭や天皇誕生日を
祝う儀式が有ることは、筋が違うのではないだろうか?
しかも
・昭和祭   4月29日
・明治祭   11月3日
というのがある。

まあ、明治祭はわかる。創設者(明治天皇)を祝うのは、理解しよう。
「昭和祭」は、何故?  そして、「どうして 大正祭がない」のだ?

しかも、「明治維新 7,751」(祀られている人数)、
これには、例えば会津藩士など、「賊軍」の死者は入っていない

もし、「日本が2600年以上の長きに渡って国体を維持」してきたとすれば、
明治維新は、「内戦」であり、当時の幕府軍も「国内の戦乱に殉じた人達」であるはずだ。

実は、靖国神社ホームページの解説記事によると、創設当時の布告には
合祀の対象を「なほこれより後も『王事(おうじ)』に身を捧げて斃れた者達
の霊と規定しています】
という文章があり、これに従っている、という。

どう考えても、靖国神社は、「国のため」ではなく「天皇のため」のもので
あると考えるべきだろう。

実際、「天皇」制に対する考えは、「神道」という宗教で裏付けされている。
しかも、キリスト教に進境や旧教があるように、
宗教としての神道に、色々な流派がある。
水戸神道と平田神道など、実は明治維新前後に、日本の神道は大きく変化した。
現在でも「神社本庁(伊勢神宮を本宗として、いわゆる日本の「神社」を統括する)」
と靖国神社は別法人ではあるが、密接な関係を結んでいる。
そして、「神社本庁」とは別組織の神道や神社も存在する。
 その意味では、「靖国神社(と各県の護国神社)」は
神道の中の一宗派」でしかない。


実は、敗戦時に、靖国神社を焼却する意向であったマッカーサーに対し、
ローマ法王使節は「自然の法に基づいて考えると、いかなる国家も、
その国家のために死んだ人々に対して、敬意を払う権利と義務がある。」
として、存続を認めたという。

私自身は「国家というシステム」は、かなり懐疑的だが、それはそれとして、
「国家が、国家の命令で死んだ人達」に対する祭祀を行うことまでは
「絶対反対」ではない。「国家としての義務」の一つだろう。

しかし、それを、「神道という、一宗教」の名の下に行うことは釈然としない。
実際、戦死した日本人にはクリスチャンもいる。
キリスト教のような一神教信者は「他の宗教で祈られる」のを嫌う。
あるいは「遺族への償い」だとすれば、遺族の意志を尊重すべきだろう。


「靖国神社問題は難しい」と言った人が居る。

私はそうは思わない。問題は簡単だ。
・国家として、国家によって死に追いやられた人を祀ること
・靖国神社という神道の一宗派によって祀ること
この二つを分けて考えるべきだ。

「国家が祀る」ことを「靖国神社に祀る」ことと切り離そうとしない人々の存在が
問題を複雑にして、日本に対する猜疑心をあおり立てている。
「大日本帝国臣民」ではなく、「日本国民」にプラスになるために
「無宗教の合祀施設」を作り、「大日本帝国時の天皇制」と切り離すこと
その上での「戦死者の合祀」をすることが、何故いけないのか?

靖国神社にこだわることこそ「日本の国益」に反すると思うのだが・・・。
それとも、また「『王事(おうじ)』に身を捧げて斃れる」国民を求めているのだろうか



 
■■■言葉狩り、言論封殺  2003/02/20


古い映画がテレビで放映されるとき、時々、セリフの音が消えるときがある。

例えば、座頭市シリーズでは、勝新太郎のセリフで、自分のことを「メクラ」と言うとき。
カラオケでは、私の好きな憂歌団の「シカゴバウンド」の邦訳で
「メクラのレモンも」という部分が「×××のレモン」と表示される。
J.L.ゴダール監督の名作も、公開時は「気狂いピエロ」だったのものが
テレビ放映時には、原語読みの「ピエロ・ル・フ」になっていた。

メクラやビッコを、「目の不自由な人」や「足の不自由な人」と言い換えることの
意味は確かにわからんでもない。
一つには、言う側に、その単語に「差別意識」や「優越感」があるとしたら問題だ。
一方、言われる側が、その単語を使われることに不快感を感じるとしたら、
たしかに、マナーとしての問題があることは言うまでもない。

もちろん、「言葉の格」が時代と共に変化するのは当然だ。
例えば、「厠」→「便所」→「お手洗い」というのも
一つには「便所」のイメージが悪くなり、「お手洗い」という
「清新なイメージ」が受け入れられ、広まったせいだ。
しかし、それが広まりすぎて、同時に、格が下がり、
外来語の「トイレ」や「洗面所」に変わっていく。

だから、「言葉が変化する」こと自体は理解する。
しかし、「便所」が「洗面所」に変わったように、
「メクラ」を「目に不自由な人」に言い換えようとする、
その「言い換え」自体が、「差別意識」ではないかと思うことがある。


以前、マルコポーロという雑誌で、「ホロコーストはなかった」という記事が掲載された。
「ナチ『ガス室』はソ連の捏造だった」という記事そのものはアホなもので何の価値もない。
それに対して、アメリカのユダヤ人人権擁護団体サイモン・ウィーゼンタール・センタ
が抗議をした。これも、まあ、あり得るだろう。
「南京虐殺がなかった」と言われたら、被害者側である中国人が怒るように
「ユダヤ人虐殺がなかった」と言われたユダヤ人側が抗議するのも当然だ。
しかし、その結果、マルコポーロは廃刊になった。
もし、この「廃刊の結果」が、
一説に言われるようにサイモン・ウィーゼンタール・センタが広告主に圧力をかけたせい
だとすれば、それは、言論の圧殺であるし、
もし、文藝春秋側の「自己規制」なら、それはジャーナリズムの放棄だ。

民主主義の言論の自由とは、
「民主主義を圧殺しよう」という言論すらも許容する
ものであると考える。


その意味で、嫌煙権運動は、ついに、「民主主義を踏みにじる」レベルまで達したようだ。

ビートルズのアビーロードのジャケット写真を使ったポスターが
嫌煙権運動団体の抗議を受け、デジタル処理で、「喫っている煙草」を削除したらしい。
そのうち、きっと「葉巻を喫っていないチャーチル」になるのだろう。

そして、世界的な機構であるはずの「WHO」(世界保健機構)も、
嫌煙権論者の巣窟になったようだ。

昨日の新聞に掲載された、WHOから発表された報告書によると
「ハリウッド映画に喫煙シーンが頻繁に登場するため、青少年の喫煙が増えた」
というのだ。
その証拠として、
「米国の調査によると、映画やテレビで喫煙の場面を150回以上見た青少年の
 喫煙率は31%、ところが50回以下だと喫煙率は4%」
だから、喫煙シーンがいけないことが確認された、という。

あまりにも笑止だ。

元になる調査報告を探したが、見つからない。
それでも、この「調査報告」の信憑性は、アホでも類推できる。

まず、第一に、「喫煙シーンを150回以上見た」ことをどうやって算定するのだ?
それほど映画やテレビで喫煙シーンが流されているのなら、
例えば15歳の少年が物心着いて10年だとすると、
1年に15回しか喫煙シーンを見てないことになる。
50回以下と言うことは、2ヶ月に1回以下だ。

このことから、もう一つ類推できる。
映画やテレビの喫煙シーンを見る回数が多くなる一番の要因は
「年齢が高くなる」ことだ。
つまり、150回以上喫煙シーンを見た「青少年」の平均年齢と
50回以下しかみない「青少年」の平均年齢が同じかどうか、という点だ。
もし、そのようなシーンを見る機会が平均的だとすれば、
150回以上のグループと、50回以下のグループの年齢層が異なるであろうし、
当然喫煙率がことなり、それをハリウッド映画に結びつけることの
是非を再検討する必要があることは当然だ。


臭い物に蓋、というよりも、怖いものを感じるのは、私だけだろうか・・・。
そのうち、何も言えなくなる時代が来る・・・



 
■■■愛国心で成績を評価する国  2003/06/27


この国は、税金を投入したテレビコマーシャルで、
「外人に日本の良さを宣伝して貰」わなければならないとこまで、
落ちきってしまっているらしい。

と思ってたら、とんでもないことをやりだしたらしい。

福岡市内の市立小学校で使用されている小学6年生の通知表に、
「国を愛する心情を持つ」などと愛国心を評価する項目があるらしい。
同市教委によると、新学習指導要領を基に同市校長会の委員会が、
2002年度の通知表の試案を作成。
その中で社会科の4評項目のひとつとして
「わが国の歴史や伝統を大切にし国を愛する心情をもつとともに、
平和を願う世界の中の日本人としての自覚をもとうとする」
かどうかを、A、B、Cの3段階で評価するという項目が
市内147校のうち69校で採用されているという。

しかも、このような動きは福岡だけではなく、はっきりしているだけで
11府県28市町の172校で採用してるいると報じられている。
市町村によっては、この評価を
「歴史や伝統を大切にし、国を愛する心情をもとうとする」
かどうかで評価しているところもあるらしい(山口県光市)。

ところで、3段階評価とは、一般的に
「十分満足できる」「おおむね満足できる」「努力を要する」
の三つだろう。

まあ、「平和を願う世界の中の日本人としての自覚をもとうとする」
というのなら理解しなくもない。
「アメリカの暴力団的言いがかりによる開戦理由に
無批判に賛同して自衛隊を送るようなアホなことをしてはいかん」という意見を持てば、
「平和を願う世界の中の日本人として」、
きっと「A」ランクに評価されるだろう<ホントか?

問題は、
「歴史や伝統を大切にし、国を愛する心情をもとうとする」
という「評価対象」だ。

この「評価項目」で、「十分満足できる」という評価を得る児童は
一体どんな児童なのだろうか?
そして、「努力を要する」という評価は、どのような場合に出されるのだろうか?

きっと、気持ちの悪い「スマイル」で、「日本は素晴らしい国です」と
言う児童がAで、今の日本に疑問を持てばCなんだろうなぁ。

今一番「努力を要する」ことを求められていることに無自覚な政治家が
いいように牛耳っている我が国に対する「十分満足な愛国心」・・・


しかし、この国は、ホントに、北朝鮮化しようとしているのではないだろうか?